成り立ち・沿革
東京都船形学園の歴史
本園は2009年(平成21年)で開設100周年を迎えました。
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東京都船形学園の成り立ち

養育院は、窮民、孤児等の収容施設として創立されましたが、当初は大人と子どもの混合収容でした。
しかし、入院児童の中には結核による虚弱児童が多く、感染拡大の防止や保養を目的に、これらの児童を分類して収容し転地療養するための海浜療養所を開設する必要がありました。
その出発点となったのが勝山保養所の開設です。
勝山保養所は、明治33年8月に千葉県勝山の篤志家広田松次郎所有の民家を借り、その1ヶ月後に同町法福寺の堂宇に移転して試験的に開設されたものでしたが、児童が健康を増進させるなど成果が見られたことから、養育院分院として永久化すべき、ということとなりました。
そして、当時の相川織江船形町長ほか人々の協力のもと、明治42年5月、現在の地に一般虚弱児童を広く受け入れ小学校教育を授ける海浜療養所として、養育院安房分院(現.東京都船形学園)が設置されました。
養育院初代院長である渋沢栄一は自ら何度も船形の地に足を運び、子どもたちに「渋沢を親と思い強くあれ」と語りました。
後に竣工された磨崖碑には、「約10年で子どもたちの多くは若死を免れることができた」と記されており安房分院の果たした役割が大きかったことが伺えます。
しかし、入院児童の中には結核による虚弱児童が多く、感染拡大の防止や保養を目的に、これらの児童を分類して収容し転地療養するための海浜療養所を開設する必要がありました。
その出発点となったのが勝山保養所の開設です。
勝山保養所は、明治33年8月に千葉県勝山の篤志家広田松次郎所有の民家を借り、その1ヶ月後に同町法福寺の堂宇に移転して試験的に開設されたものでしたが、児童が健康を増進させるなど成果が見られたことから、養育院分院として永久化すべき、ということとなりました。
そして、当時の相川織江船形町長ほか人々の協力のもと、明治42年5月、現在の地に一般虚弱児童を広く受け入れ小学校教育を授ける海浜療養所として、養育院安房分院(現.東京都船形学園)が設置されました。
養育院初代院長である渋沢栄一は自ら何度も船形の地に足を運び、子どもたちに「渋沢を親と思い強くあれ」と語りました。
後に竣工された磨崖碑には、「約10年で子どもたちの多くは若死を免れることができた」と記されており安房分院の果たした役割が大きかったことが伺えます。

養育院安房分院(明治42年)
磨崖碑
大正6年6月、安房分院の由来とその事業を記念するために竣工されました。
撰文は三嶋中洲博士、書は渋沢栄一によります。
崖の高さは16m、碑の高さ10m、幅6m、一文字の大きさが30㎝四方、房州石に彫られた国内有数の碑です。

磨崖碑竣工式(大正6年)

現在








